問題を起こすぐらいなら成人式はやらない方がいい

以前、こちらの記事で成人式の開催意義を理解できないことを述べた。

真剣に考えたが、やはり成人式の開催意義を理解出来ない - この世の中を眺めて

あれから成人式の当日になってみれば、やはりそれに追い討ちをかける問題が必ず起きる。

誰かがふざけて逮捕される。

もうこれは毎年恒例の事件で、最早呆れることすらできなくなった。

そうは言っても、今回茨城県つくば市の成人式では、自分が知る限りの範囲で過去最悪の態度をとる男子グループがいた。

彼らは式中にステージに上がり、式を混乱させた。その後のインタビューでのコメントは、「自分が楽しければそれでいい。周りは関係ない」。

自分のことしか頭がない、社会性のない人間である。

彼らはこのような行動を「つくば市の『文化』」と言い張っている。しかし、文化という言葉は、何かを言い訳する時には使いやすいが、結局今回の事件の発端となっている行動は、たかが一部の「集団」のみに根付いているだけの「習慣」に過ぎない。そんなものを「文化」とは言わない。

上記のURLで、私は「大人の自覚は本人の意思次第にすべき」と述べた。

今回の事件を見て分かるように、いくら実年齢が20歳でも、精神年齢が20歳ではない馬鹿がいる。そんな状況で成人式を開いても、精神年齢が身体に追いついていない人間が、大人の行動をできるわけがない。人間は、「大人の自覚をしろ」と言われて自覚するとは限らないのだ。

だからこそ、大人の自覚は本人の意思次第にすべきだ。

真剣に考えたが、やはり成人式の開催意義を理解出来ない

成人式は日本独特のものである。20歳を迎える年度に該当者が参加する。

正直私はだるさを感じるほど嫌だった。

とにかく面倒くささしかなく、時間を無駄にした気分だった。

同級生が集まるために、一生の思い出という理由をつけて出る人も多い。

成人式は、自分が大人になるということの自覚をもつための式と言われている。大抵の人ならこれで納得するだろう。でも私は納得しない。



なぜ大人になる自覚を「勝手に」させられないといけないの?

大人になったかどうかを自覚するのは本人の意思次第だろう?

少なくとも、私は大人であるべき部分は成人する前からそうであるように意識してきた。

日本人は受け身と言われているが、まさかこんなところまで受け身状態だったとは。

日本は公の人間に言われないと大人の自覚をしない国なのか?成人式をやらないと誰も大人になれないと思い込んでいるのか?

次に成人を迎える人々がどんな思いをしているのか考えたくもない。

もう勘弁してやってください。

刑法に「情報操作・隠蔽罪」を加えるべきではないか

情報操作や情報隠蔽は、「人に嘘をつく」という行為を公のレベルですることだ。

日本の政府や企業では、なぜかこういうことが起こりやすい。何かと真実を隠したがる。

最近で言えば、某ラーメン店のラーメンに指が混入した事件が起きたにもかかわらず、店は「爪が入った」と嘘をついた。

最悪の例では、アスベスト問題がある。アスベストは、 塵肺、肺線維症、肺癌、悪性中皮腫などの人体への健康被害があるにもかかわらず、耐熱性、絶縁性、保温性に優れているという理由で長年建設の材料に使われ、肝心の健康被害については隠されていた。そのせいで多くの人が犠牲になった。

最初から真実を伝えるだけでこうはならなかったはずの問題が山ほどある。

嘘には、ついていい嘘といけない嘘があるが、ついていい嘘とは、人(個人単位)のためになる嘘だけだ。

公レベルで人のためになる嘘をつくことは、まず出来ない。一つの物事がすべての人にとってためになるなどありえないからだ。

嘘をついたり、真実を隠すことで発生する被害は想像よりも大きすぎる。犯罪に匹敵する行為と捉えてもいい。どうせなら、「情報操作・隠蔽罪」をつくるべきではないか。

ちなみに、情報操作と隠蔽を一緒にしたのは、結局情報操作も真実を隠しているからである。

感謝とは、言われてするものではなく、自分からするもの

よく感謝しろと言う人がいる。もちろん、その人は他人に対して良かれと思って何らかの行為をしたからそう言うのだろう。しかし、自分が良かれと思うことと、他人がされてどう思うかは話が別だ。

良かれと思っても、他人にとっては余計なお世話だったり、逆に不快な思いをさせることだってある。そう感じたならば、感謝できるはずがない。しかし、世の中には口で「感謝しろ」と言う人がいる。

なぜそう言うのか。

それは口でそう煽らなければならないほど自分が感謝されていないからである。

本当に感謝される人なら、「感謝しろ」と言わなくても感謝される。

「感謝しろ」と言う人は、感謝されないくせに感謝されたくて必死なのだ。感謝されるだけのことを何もしていないのに。

ありがたみを感じるから感謝するのだ。ありがたみを微塵も感じない行為に感謝できる人間などいない。

つけ麺がラーメンと同じか別かなど個人の価値観次第

http://web.archive.org/web/20130622095039/http://www.asahi.com/business/pressrelease/ATP201005190013.html

別にどちらでもいい。

私はつけ麺はラーメンとは別物と考える。なぜなら、本当につけ麺がラーメンの一種だとしたら、つけ麺はラーメンの麺とスープを別々にしただけの、意味のない料理になるから。

それに私の経験上、つけ麺は麺もスープも、ラーメンとは違う作りになっていると思う。

一方で、つけ麺が嫌いな人は、その多くが「結局麺をスープにつけて食べるからラーメンと同じ」と言っている。これはつけ麺がラーメンの麺とスープを別々にしただけの料理という認識をもってこの結論を出しているわけである。

つけ麺が好きな人は、麺とスープを別々にしただけという概念を取っ払うぐらい好きになる理由を見出している。

つけ麺がラーメンの一種であるかどうかなんて、人の認識の仕方によって違う。安易に公式的な結論を出すな。

少子老害社会

今の日本を「少子高齢社会」と表現するのはもう生ぬるい。高齢では済まされない問題がありありとある。

高齢化が引き起こすトラブルは増え続けている。人口の高齢化に伴う問題発生は、どうやら私がかつて想像していたものより上を行っている。

終身雇用と年功序列によって無能なくせに上の椅子に座り続ける奴ら。

時代の流れについていけないのを、若者をあからさまに批判することでごまかす奴ら。

過去の栄光にすがりつき、今現在と未来から目を背けて偉そうな態度をとる奴ら。

些細な事で延々と逆ギレする奴ら。

相手が自分より年下という理由で上から目線になる奴ら。

…私が思っていたのは、単純に若者や社会人が高齢化を支えきれなくなっていくものだと思っていた。しかし、実際に高齢化でおきる問題の本質は、高齢者にあると分かった。

仕方がないで済ませるのは嫌いだが、高齢者が些細な事で逆ギレするのには理由がある。

前頭葉の劣化だ。

前頭葉は理性を保つ働きをする。老化すると、それが上手く機能しなくなるため、いわば前頭葉がまだ未熟な子どもと同じような状態になるわけである。

それが原因で、気分を抑えられなくなる。「最近の若者はマナーがなってない」と言う人ほど、マナーがなってない。このような場面では、高齢者は大抵キレている。

よく聞くのが電車の優先席の話だ。座席を必要としている人が優先的に座れる座席がある。当然、若者であっても足が重傷だったりすれば、優先席に座っていい。

しかし、高齢者はそこまで頭が働いていない。優先席に若者が座っていると、若者という理由で「席を譲れ」と言い出す。彼らの言い分は「高齢者に優しい社会を意識しろ」だろう。否、今の日本はむしろ「高齢者に甘い社会」だ。

老害を是正する気がないのは、国を見れば分かる。政治も高齢者向けの政策しかしない。だから若者が社会に恵まれず、その環境をいつまでも引きずっている。勘違いするな。若者が政治に興味を示さないのではない。国が、若者が政治に興味を持てる構造になっていないのだ。縦の関係を重んじる部分と、年上の顔を立てる国民の意識で分かる。

どういうことか。簡単に言えば、日本人は若者の夢を素直に応援しないのだ。大体の人間は否定ばかり。これが若者の意欲や活躍の機会を奪っている原因なのだ。

その上、「若いうちの苦労は買ってでもしろ」の一点張り。そんなもの、福祉の世界ではタブーな考え方だ。本来は老若男女幸せでいられる社会であるべきなのに。苦労とは好き好んでするものではない。やむを得ずにするものだ。自ら苦労へ飛び込んでいく人は、我々に分かりやすい言葉で言えば、

ただのドMだ。

政治の話に戻るが、未来のない世代の人間のための政策をして、それが一体何になる?どうせ後少しの寿命なのに。

迷惑な話は病院にもある。日本ではなぜか安楽死が望まれていない。可能であれば何が何でも生き延びさせようとする。例え本人の意思を無視してでも。

延命措置のために病院にへばりつく高齢者のせいで、他に治療を必要とする人々の枠がなくなる。寝たきりになって、何が楽しい?

極め付けは、最近よくニュースになる高齢者の運転事故。身体能力老化しているのに、まだ運転を続けるのか?彼らの事故のせいで、若い命を落としている事例まであるのに、これでは最早高齢者が社会を牛耳っているようなものじゃないか。

高齢者は時代が変わって生きにくいと言うだろうが、生きにくいのは高齢者に潰される若者だ。

社会はいつだって、一番可能性を秘めた世代を中心に回る環境を作るべきだ。厳しすぎる上下関係は、結局無駄な問題を生み出すだけ。

だから私は思う。

高齢者は、若者の敵だ。

カジノを解禁させないと言う人たち、まず労働環境に目を向けたら?

ここ最近日本でもカジノを合法化しようとする動きが高まっている。

なぜこれまで日本ではカジノが禁止されていたのかという話だが、それは簡単に言えば労働意欲を持たせるためである。誰かがカジノで多額を勝ち取ったと知れば、こちらは働いているのにと不公平を感じ、労働意欲を失う。また、労働ではなく、カジノを通してお金を得ようとしたり、カジノのためのお金を犯罪行為で入手したりするという問題があるらしい。

だが、私は労働意欲に関して思う。

別にカジノがあってもなくても、少なくとも今の若者にとって日本の労働環境は労働意欲を喪失させる状況にある。

長時間労働が常態化して、残業が当たり前、しかもそれが良いとされる有り様。

終身雇用と年功序列によって、対して有能でもないくせにデカい面して上の椅子に座り続ける老害

部下が苦しんでも本人の弱さのせいにする上層部。

客の要求が絶対。実現できなければ即クレーム。

保護法益ではカジノ禁止について「 国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損い、国民経済の影響を及ぼすから 」と説明しているが、こんなものが「勤労の美風」などと言えるのか?日本人は今日までこれらの労働環境を「勤労の美風」などとほざいてカジノを禁止してきたのか?

カジノを禁止する理由に労働意欲の問題を持ち出すなら、まずは労働環境を改善するべきだ。今のままじゃ、カジノがあってもなくても、労働意欲なんて大して変わらないから。