日本人の音楽センスの世界とのズレ

音楽の良し悪しを決めるとき、日本人は歌詞ばかりに注目している気がする。しかし、仮に言葉次第でどうにかなる問題なら、そもそも音なんて必要ない。歌詞が重要だと思い込むから、音作りがおろそかになる。正直な話、私には邦楽がどれも同じようにしか聴こえない。

 

これが邦楽が世界で通用しない理由だろう。

 

邦楽と洋楽を比べると、どうしても洋楽の方が完成度が高く感じる。

 

大体、歌詞の内容次第で良し悪しが決まる音楽では、同じ内容の歌詞を持つ音楽しか売れず、バリエーションに欠ける。

 

日本人にとって、音楽とは歌ありきなのか?

 

私は、本当の音楽は歌など関係ないと思っている。日本語は音を楽しむと書いて音楽なのだから、歌ではなく音を楽しむべきではないか?

麺は音を立てないのが確実

日本では、麺は音を立てて食べるのが良いとされているが、外国ではそうではない。しかし、私が気になるのは、麺は音を立てて食べる「べき」という意見や、麺は音を立てて食べるのが「マナー」という意見があること。これが分からない。

確かに日本では、麺は音立てることで食欲がそそられたりする見方もある。しかし、それが一体何だというのか?音を立てて食欲をそそらせるのがマナーだと言いたいのか?私なら待ったをかける。

よく麺をすするのは日本の「文化」と言うが、それが人を不快にさせているのであれば、文化と呼ぶには相応しくないと捉える。文化なら何をしてもいいというわけではない。「人がされて嫌なことはしない」というコミュニケーションスキルの信念に基づけば、例え文化と呼ばれている行為も、人が嫌がるならやめるべきだ。

大体、音を立てないことが人に迷惑をかけることにな繋がらない。早い話、音を立てることと、食欲がそそられることを関連付ける人は、偏見に近い。別に麺が好きな人は音がなくたって食欲が湧くし、嫌いな人には音は迷惑だろう。

少なくとも、音を立てなければ誰にも迷惑をかけない。その上、グローバル社会の今、音に関するマナーぐらいは意識すべきだ。

グリーン車と子ども

新幹線や特急列車には、良質な設備を搭載した特別車両「グリーン車」がある。特急料金に加えて、設備に対してかかる「グリーン料金」を支払うことで利用できる。

勿論、普通車よりも快適な空間であるが、どうやら人によっては必ずしもそれが保証されているようではないらしい。彼らが悩まされている問題がある。

子どもはグリーン車に乗っていいか否か?

せっかくグリーン車に乗ったのに、逆に不快な思いをしたという人が何人もいる。その主な原因は子どもにあるようだ。

その原因とは、単純に声がうるさいというもの。子どもはまだ公共のマナーが未熟で場をわきまえることができず、騒いでも人に迷惑をかけているという自覚がない。医学的に言えば、子どもは脳みその一部であり、理性を保つ働きを起こす前頭葉が未熟であるため、その場その時の気分に流されやすく、我慢ができない。これらが子どもが騒ぐ原因である。

確かに公共の場で人が騒ぐのは迷惑だ。グリーン車は設備のサービスであるが、普通車に比べて合計料金が高く、普通車よりも利用率が低くなるため、それ故静寂になることが多い。この性格を考えると、グリーン車は静寂という部分にも料金を支払う意味があると言える。

そう考えると、子どもに騒がれればグリーン車のために支払った料金が無駄になった気分になるのも分かる。

しかし、どの鉄道会社にも、子どもをグリーン車、乗せてはいけない規定はない。法律的に子どももグリーン車に乗れる。ただし、運賃と特急料金とは違い、グリーン料金は年齢を問わず同額である。

とはいえ、公共の場では静かにするべきだ。グリーン車に限らず、こういう場所では親が子どもを落ち着かせる必要がある。例えば騒ぎ出したらデッキに連れて行ったり、わざと寝かしつけたり。

ただ、第三者も可能な環境であれば音楽を聴くなどして周りの音を遮断する手もある。

これらの方法で大体は解決するだろう。

最後に、子どもがグリーン車に乗ることに否定的な人の意見の中に「小さい頃から贅沢をするな」というものがあるが、この理由はナンセンスだ。子どもの心の成長は親の教育次第であり、贅沢をしたからといって心の出来が悪くなるわけではない。最も、親に連れられている子どもが、自分がグリーン車という優等車両に乗っていること自体、親に言われない限り気付かないだろう。

「苦手克服」はお金と時間のムダ

人には必ず長所と短所がある。
人には必ず得意と苦手がある。

それは生まれ持った素質である。なぜなら得意と苦手は人それぞれ違うから。過去の経験は関係ない。

そして、得意と苦手は本人の個性でもある。なぜなら得意と苦手は人それぞれ違うから。その個性はその人の感性である。

だからこそ、その個性は最大限に生かすべきなのだ。

しかし、残念なことに日本社会はそれが上手くできない構造になっている。長所を伸ばすよりも、「苦手がないこと」が重視されてしまっている。

日本の義務教育9年間は誰であろうと、国語、数学、理解、社会、英語を満遍なく学ばされる。正直社会に出て役に立つ分野なんてほんの一握りしかない。なぜ将来自分にとって役に立たない学問を習う必要があるのか?欧米では自分好みの分野を学べるというのに。

第一、苦手克服は、日本人の無個性を象徴している。せっかくの長所をほったらかしにして、好きでもない短所を伸ばすなど、何が楽しいの?長所があるなら、それを生かせる仕事をすればいいのに。日本人は人を評価するとき、どうしても短所に目が行きがちだ。

こういうことを考えるとき、私はいつも「合理性」を重点に置く。

合理性がどういうことか。例えば、子どもの頃はよく「好き嫌いをしないで食べろ」と教わるだろう。世間では好き嫌いは良くないこととされているが、私は悪いこととは思えない。

人それぞれ味覚は違うし、最もな話、味覚は人の意思で変えることなどできない上、味覚でさえ人の個性である。

牛乳にはカルシウムが含まれている。カルシウムは骨を丈夫にするには重要な栄養だ。だから広く国民に飲まれている。

しかし、中には牛乳を「嫌い」だとか、「まずい」だとか言う人もいる。それは当然のことだ。だからといって、好き嫌いをするなでは彼らは納得しない。

よく考えてほしい。カルシウムを含む食材は牛乳以外にいくらでもある。カルシウムをとるために牛乳を飲むのが嫌なら、ヨーグルトを食べればいい。魚類でもいい。牛乳の嫌な味を避けつつも、同じようにカルシウムをとる方法があるというのに、好き嫌いをするな、なんて言えるか?

念のため断っておくが、こういう話をすると、「貧しい国の人達は食べ物がなくて苦しんでいるのに、せっかく手に入る食べ物を嫌いという理由で放棄するな」という輩が出てくるが、そういう次元と一緒にしないでほしい。食事で大切なのは「楽しさ」である。嫌いなものを無理やり食べさせようとしたら、食べさせられる本人は、食事で嫌な思いをするだけだ。どうせ食べるなら、美味しく楽しい方がいいに決まってる。

なぜこういった「合理的な考え方」ができないのか。

私の心にへばりついていることがある。マーケティング論においては、「プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント」という経営理論がある。それは「金のなる木」「花形商品」「問題児」「負け犬」の4つに分けられる。

そのうち、「負け犬」とは、その企業が競合他社と競い合っても負ける要素であり、個人単位で考えれば、まさに「苦手分野」である。

マーケティングの世界では、負け犬の要素では勝てないから、それは捨てて別の手を打つべきと言われているのに、なぜ個人単位ではその負け犬を伸ばそうとするのか?私には理解できない。

どうせ、人のスキルのうち、社会で役に立つ分野なんて一握りしかないのに、苦手分野がないというどうでもいいステータスのために苦手克服するなんて面倒だし、何よりお金と時間のムダだ。

我々は個性を尊重するべきなのだ。我々はクローン人間ではない。人の体内から生まれた、人工的な手をかけられていない100%自然な人間なんだ。自然に生きていれば、無意識に長所を生かし、短所は捨てる行動に出るはず。その長所短所を矯正する権利は誰にもない。

苦手克服など、死んでもごめんだ。

流行語大賞は最早主観でしかないのか?

私はもう流行語大賞には失望した。

去年のトリプルスリーだけならまだ我慢出来たが、今年まで野球関係のものが選ばれたのは予想外だった。もう来年からは流行語大賞なんて期待しない。どうでもいい。

俺は気付いたんだ。流行語大賞なんて、所詮主観なんだと。

どうせ去年も今年も審査員の主観で選ばれたワードなんだろう?自分の中で流行っていないという人の気持ちは分かりはしない。

審査員が野球関係者だという疑惑を抱いたまま、私は流行語大賞に見切りをつけるのであった。

自分に問題があるという考え方も度が行きすぎている話

何か失敗したとき、それは自分のせいか?人のせいか?

一般的には、自分に問題があると考える方が良いとされている。自分に問題があるから、それを改善して次に生かす。これはこれでいいことだ。

しかし、最近どうにもそういった考え方が暴走している気がする。私自身、自分のせいにしていては解決しない問題があると感じている。

その問題、本当に自分が悪いのか?

本気で考えた結果、次の結論にたどり着いた。

自分せいにすることは、個人単位で考えるならその方が妥当だ。

しかし、社会全体で考えれば、自分(国民)のせいでは問題は解決しない。

アルコール依存症を例にしよう。
個人単位で考えれば、アルコール依存症になったのは本人が悪いと考えるだろう。しかし、実際にはアルコール依存症は社会問題であり、深刻化している。

世間はアルコール依存症をなくしたいと思ってはいるが、どうもその対策が、国民の意思に委ねる形に思える。確かに現在は保健体育の教科書に飲酒の危険性を示す内容が載っているが、それだけでアルコール依存症が減るとは思えない。

第一、日本社会でおかしいのは、お酒に取り扱えるのは20歳以上という年齢制限を設けておきながら、酒類の広告を闇雲に垂れ流していること。当然、広告は年齢を問わず誰の目にもつく。これが未成年者を含む人々に飲酒の関心を煽っている。これがアルコール依存症の原因になっているのなら、広告を規制していくべきだ。

実際、欧米では、酒類の広告は厳しく規制されている。いくつか例を挙げると、

[アメリカ]
アルコール度数22%以上の種類のテレビCMは禁止
→主要テレビネットワークの自主規制

[イギリス]
蒸留酒(ウイスキーやブランデーなど)の
CMは禁止
→メディアの自主規制

[フランス]
全種類のテレビCMは禁止
→法律による規制

このようになっている。

これらと比べると、日本の酒類の広告は野放し状態と言っていい。2015年9月からテレビCMで効果音や演出に関する部分で規制がかかっているが、あんなものは規制のうちに入らない。さらに、テレビCMの度に「お酒は20歳になってから」と出るが、それではダメなのだ。

アルコール依存症を手っ取り早くなくしたいなら、まずは飲酒の関心を煽らないように、広告を規制するべきなのだ。しかし、日本人は何でもかんでも自分せいと考えてしまうため、アルコール依存症になったのは本人が悪いという考えに行き着き、企業に責任はないことになり、広告を規制するという発想が生まれない。

早い話、犯罪などの問題行為をなくしたいなら、その行為を「させない」対策ではなく、「できない」構造にしていくべきだと言いたいんだ。

これは考え方として言うが、アルコールの「存在自体」をなくせば、飲酒運転だってできなくなる。これで飲酒運転は完全になくなる。

人気のセブンカフェだって、今の構造ではその気になれば、コップ1つで何杯も注げる。もちろんそれをやれば窃盗罪になる。しかし、これまでの日本人ならそれを「ルールを守らない本人がバカ」としか思わないんだろう。それはそうだが、コップ1つで何杯も注げる構造をほったらかしにしているセブンイレブンにも問題がある。

他にも、いじめは「いじめられている本人にも原因がある」という考え方はやめるべきだ。本人は何もしていないのにいじめられるのである。ありもしない原因を探しても解決しない。本当に原因があるなら、本人自身で改善して、第三者を必要とせずに解決するはずである。

どうだ?自分(国民)ではなく、人(企業)のせいにすることで解決できる問題もあるんだよ。もう少し頭を柔軟にして物事を考えようね。

体罰が絶対悪である理由

たとえどんな理由があろうと、絶対に人に暴力を与えてはならない。体罰は、絶対に許してはならない行為である。

昭和時代は子どもや生徒が悪さをすれば、親が、先生が力で制裁を加えるのが当たり前だった。しかし、現在はそれが法律で禁止されている。昔は当たり前だった行為を今すれば、犯罪になる。

現在は、体罰に関しては肯定派と否定派がいる。私は否定派だ。

例えば、スマートフォンやパソコンが不具合を起こしたからといって、叩き壊す人がいるか?いや、いない。誰もが修理に出すか、新しく買い替える。
それと同じように、人間も不具合を起こしたら(悪さをしたら)、修理して正しい方向へ導いてあげなければならない。

正すため、を口実に体罰を喰らわせるのは誰にでもできる。叩くだけなのだから、考える必要がない。考える必要がないから、その考える必要がない行為を多用する人は、いかにバカであるのかが分かる。体罰をする人はバカなんだ。その方法でしか人を正すことができないのだから。

インターネットを見て回っていたら、ため息が出るほどの勘違い野郎がいたので、そいつを見せしめにしながら話す。
↓↓↓

http://machikun.la.coocan.jp/essaym.htm

体罰肯定派の中で、最も勘違いとして多いのが、「しつけ」だの「信頼関係」だの、こういうたぐいの意見。よく考えてほしい。体罰を受けた者はどう思うか?「痛い」以外に感情があるか?私なら「痛い」で簡潔する。いや、「痛い」で簡潔するべき場面なのだ。

しかし、多くの人は「しつけ」という言葉で体罰を正当化し、体罰を受けた側も「自分をよくするために叩いた」と、疑わずに納得する。ましてや、その体罰に感謝の感情が生まれるようでは、我々に分かりやすい言葉で言えば、

そいつはただの「ドM」だ。

体罰を受けたら痛い。身体も心も痛い。それ以外に感情なんてない。不具合を起こした人間をさらに叩いても、良くなるはずがない。

人は生き物だから、怪我をしても治る。だから体罰をしても問題はない。そう思っているだろう。実際、耳にビンタを喰らって鼓膜が破れたという被害者が過去にいた。原因は空気圧によるもの。

単純な怪我ならまだしも、耳の鼓膜のように、体罰は身体を傷つけることで人生を狂わせる可能性もある。それが分かっても体罰は必要だなんて言えるか?おっと、耳の鼓膜が破れたのを悪さをした罰だと思うなよ?

結局、人間にも治らない傷がある。そして、人間は人であり、物ではない。体罰は絶対悪である。人が悪さをしたら、修理してあげるべきなのだ。