残業は法律で抑えるなど不可能

電通過労自殺が問題になり、日本人の働き方は時代遅れだと関心が高まってきている中、この問題をきっかけに政府が残業規制を改める体制に乗り出した。

残業上限は月60時間、繁忙期は月100時間にするという。

私はこのニュースを見てイライラした。法律で残業を規制したからといって、残業はなくならない。

なぜなら、今の日本人の労働スタイルは、残業せざるを得ない構造になっているからだ。

まず、労働基準法では、労働時間は1日8時間まで、週40時間までと定められている。わざわざ言うまでもないが、これは「原則」だ。

どんな法律にも、「原則」と「例外」がある。原則とは、その法律による効力をを十分に発揮するために最低限守らなければならない規定である。しかし、法律は万能ではなく、原則だけでは対応出来ないことがある。それでもその法律に意義を見出す必要がある時に、「やむを得ず」使うのが「例外」である。

言い換えれば、原則で対応出来るのに例外を使ってはならない。例外を多用したら、原則が原則である意味がなくなってしまう。日本の労働では、まさにそれが起きている。

もう一度言うが、労働時間が1日8時間まで、週40時間までという内容は原則だ。それで仕事を終わらせられない時に、「やむを得ず」例外を使う、つまり、残業したいのなら「時間外労働・休日労働申請書」を出す必要がある。もちろん、本来なら8時間で仕事が済むのに残業申請など通してはならない。しかし、現実には残業申請が乱用されている。なぜそういったことが起きるのか?

問題は日本の労働の構造にある。

まずは終身雇用と給料について。日本は終身雇用制をとっているために、定年退職まで同じ職場にいることが保証されている。しかし、それが職場で生き残る意欲を低下させ、真面目に働かなくなる。
給料も成果主義ではないので、正規雇用非正規雇用も、給料の決定条件はみんな同じ。真面目に働いても給料は上がらない、不真面目に働いても給料は下がらない。ならば不真面目に楽する方が得するに決まっている。
特に時給制の場合、金目当てにわざと残業する人もいる。

それらの構造が労働生産性を低下させている。分かりやすく言えば、成果主義に比べて仕事を早く片づけられない。だから8時間で仕事が終わらない。そして残業にすがりつく。

もう一つは日本の職場は個人の仕事が固定的ではないこと。同じ企業に入っても、その企業にいる人全員が同じ仕事をするわけではない。
海外なら一度1つの部署に就いたら、そこで働くのが当たり前。しかし、日本では状況に応じて色々な仕事を回される。自分が何の仕事をする人間なのか、明確に決められないのだ。これが原因で、自分の仕事が終わったと思っても、「じゃあ次これやって」と言われ、帰らせてくれないことが多い。これが長時間労働を助長している。

これらの通り、そもそも残業は労働環境が作り出しているのであって、いくら法律で規制しようとも、これらを残業する必要のない構造に変えていかなければ残業はなくならない。残業は法律でなくせるのなら苦労はしない。

最後に。

残業したって褒められることなんて何もない。世界ではそれが当たり前。

残業とは、「仕事が遅い人の罰ゲーム」なのだ。

スマートフォンのバッテリーの相対的性能がほとんど向上していない件

最近のスマホはバッテリーの容量が3500mAhなど、画期的な成長を見せているが、残念なことにアプリの性能と比べた場合のバッテリーの相対的性能は昔と大して変わっていない。

 

当然、バッテリーのみならず、アプリも成長する。アプリの性能が上がるほど、その分バッテリーの消費も激しくなる。バッテリーの絶対的性能はもとより、アプリとの相対的性能を上げるには、アプリ以上に急速な成長を実現しなければならない。

 

バッテリーの成長速度がアプリと同じでは、いつまでたってもバッテリーが長持ちする実感が得られない。最も、そんなにスマホゲームをしない人にとっては関係ないかもしれないが、そうではない人も十分に多い。彼らの期待に応えるには、やはりアプリの性能に勝るバッテリーを作るしかない。

問題を起こすぐらいなら成人式はやらない方がいい

以前、こちらの記事で成人式の開催意義を理解できないことを述べた。

真剣に考えたが、やはり成人式の開催意義を理解出来ない - この世の中を眺めて

あれから成人式の当日になってみれば、やはりそれに追い討ちをかける問題が必ず起きる。

誰かがふざけて逮捕される。

もうこれは毎年恒例の事件で、最早呆れることすらできなくなった。

そうは言っても、今回茨城県つくば市の成人式では、自分が知る限りの範囲で過去最悪の態度をとる男子グループがいた。

彼らは式中にステージに上がり、式を混乱させた。その後のインタビューでのコメントは、「自分が楽しければそれでいい。周りは関係ない」。

自分のことしか頭がない、社会性のない人間である。

彼らはこのような行動を「つくば市の『文化』」と言い張っている。しかし、文化という言葉は、何かを言い訳する時には使いやすいが、結局今回の事件の発端となっている行動は、たかが一部の「集団」のみに根付いているだけの「習慣」に過ぎない。そんなものを「文化」とは言わない。

上記のURLで、私は「大人の自覚は本人の意思次第にすべき」と述べた。

今回の事件を見て分かるように、いくら実年齢が20歳でも、精神年齢が20歳ではない馬鹿がいる。そんな状況で成人式を開いても、精神年齢が身体に追いついていない人間が、大人の行動をできるわけがない。人間は、「大人の自覚をしろ」と言われて自覚するとは限らないのだ。

だからこそ、大人の自覚は本人の意思次第にすべきだ。

真剣に考えたが、やはり成人式の開催意義を理解出来ない

成人式は日本独特のものである。20歳を迎える年度に該当者が参加する。

正直私はだるさを感じるほど嫌だった。

とにかく面倒くささしかなく、時間を無駄にした気分だった。

同級生が集まるために、一生の思い出という理由をつけて出る人も多い。

成人式は、自分が大人になるということの自覚をもつための式と言われている。大抵の人ならこれで納得するだろう。でも私は納得しない。



なぜ大人になる自覚を「勝手に」させられないといけないの?

大人になったかどうかを自覚するのは本人の意思次第だろう?

少なくとも、私は大人であるべき部分は成人する前からそうであるように意識してきた。

日本人は受け身と言われているが、まさかこんなところまで受け身状態だったとは。

日本は公の人間に言われないと大人の自覚をしない国なのか?成人式をやらないと誰も大人になれないと思い込んでいるのか?

次に成人を迎える人々がどんな思いをしているのか考えたくもない。

もう勘弁してやってください。

刑法に「情報操作・隠蔽罪」を加えるべきではないか

情報操作や情報隠蔽は、「人に嘘をつく」という行為を公のレベルですることだ。

日本の政府や企業では、なぜかこういうことが起こりやすい。何かと真実を隠したがる。

最近で言えば、某ラーメン店のラーメンに指が混入した事件が起きたにもかかわらず、店は「爪が入った」と嘘をついた。

最悪の例では、アスベスト問題がある。アスベストは、 塵肺、肺線維症、肺癌、悪性中皮腫などの人体への健康被害があるにもかかわらず、耐熱性、絶縁性、保温性に優れているという理由で長年建設の材料に使われ、肝心の健康被害については隠されていた。そのせいで多くの人が犠牲になった。

最初から真実を伝えるだけでこうはならなかったはずの問題が山ほどある。

嘘には、ついていい嘘といけない嘘があるが、ついていい嘘とは、人(個人単位)のためになる嘘だけだ。

公レベルで人のためになる嘘をつくことは、まず出来ない。一つの物事がすべての人にとってためになるなどありえないからだ。

嘘をついたり、真実を隠すことで発生する被害は想像よりも大きすぎる。犯罪に匹敵する行為と捉えてもいい。どうせなら、「情報操作・隠蔽罪」をつくるべきではないか。

ちなみに、情報操作と隠蔽を一緒にしたのは、結局情報操作も真実を隠しているからである。

感謝とは、言われてするものではなく、自分からするもの

よく感謝しろと言う人がいる。もちろん、その人は他人に対して良かれと思って何らかの行為をしたからそう言うのだろう。しかし、自分が良かれと思うことと、他人がされてどう思うかは話が別だ。

良かれと思っても、他人にとっては余計なお世話だったり、逆に不快な思いをさせることだってある。そう感じたならば、感謝できるはずがない。しかし、世の中には口で「感謝しろ」と言う人がいる。

なぜそう言うのか。

それは口でそう煽らなければならないほど自分が感謝されていないからである。

本当に感謝される人なら、「感謝しろ」と言わなくても感謝される。

「感謝しろ」と言う人は、感謝されないくせに感謝されたくて必死なのだ。感謝されるだけのことを何もしていないのに。

ありがたみを感じるから感謝するのだ。ありがたみを微塵も感じない行為に感謝できる人間などいない。

つけ麺がラーメンと同じか別かなど個人の価値観次第

http://web.archive.org/web/20130622095039/http://www.asahi.com/business/pressrelease/ATP201005190013.html

別にどちらでもいい。

私はつけ麺はラーメンとは別物と考える。なぜなら、本当につけ麺がラーメンの一種だとしたら、つけ麺はラーメンの麺とスープを別々にしただけの、意味のない料理になるから。

それに私の経験上、つけ麺は麺もスープも、ラーメンとは違う作りになっていると思う。

一方で、つけ麺が嫌いな人は、その多くが「結局麺をスープにつけて食べるからラーメンと同じ」と言っている。これはつけ麺がラーメンの麺とスープを別々にしただけの料理という認識をもってこの結論を出しているわけである。

つけ麺が好きな人は、麺とスープを別々にしただけという概念を取っ払うぐらい好きになる理由を見出している。

つけ麺がラーメンの一種であるかどうかなんて、人の認識の仕方によって違う。安易に公式的な結論を出すな。